サンチョ1世 (アラゴン王)
サンチョ1世 / サンチョ5世 Sancho I / Sancho V | |
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アラゴン国王 ナバラ国王 | |
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在位 |
1063年 - 1094年(アラゴン王サンチョ1世) 1076年 - 1094年(ナバラ王サンチョ5世) |
出生 |
1042年頃 |
死去 |
1094年6月4日 |
配偶者 | イザベル・ドゥルジェイ |
フェリシー・ド・ルシー | |
子女 |
ペドロ1世 アルフォンソ1世 ラミロ2世 |
家名 | ヒメノ家 |
王朝 | ヒメノ朝 |
父親 | ラミロ1世 |
母親 | エルメシンダ・デ・ビゴーラ |
サンチョ1世(スペイン語:Sancho I, 1042年頃 - 1094年6月4日)は、アラゴン王国の国王(在位:1063年 - 1094年)、後に兼ナバラ王(ナバラ王としてはサンチョ5世、在位:1076年 - 1094年)。サンチョ・ラミレス(Sancho Ramírez)とも呼ばれる。アラゴン王ラミロ1世の息子。
生涯
[編集]1063年、父がタイファ(イスラム教国)の1つ・サラゴサ王国とカスティーリャの連合軍に敗れ戦死、アラゴン王位に即いた。
翌1064年、ローマ教皇アレクサンデル2世がイスラム教に対する十字軍を招集するとすぐさま応じ、バルバストロはアキテーヌ公ギヨーム8世らが参加した十字軍に陥落させられた(ただしアラゴンは関与せず)。サンチョ1世は戦後教皇を始め西欧との結び付きを深め、1068年に教皇への臣従を宣言、1071年にローマ式典礼を用い、1077年と1088年には教皇グレゴリウス7世とウルバヌス2世にも臣従して教皇の後ろ盾を得た。また自身の再婚を通しフランス貴族と姻戚関係を築き、彼等のスペイン流入を促した。こうしてフランスから来たレコンキスタに向かう貴族らの助けで、サンチョ1世は1083年のグラウス、1089年のモンソン征服など領土拡大を進めた[1][2]。
しかし1067年、2人の従兄弟でカスティーリャ王サンチョ2世とナバラ王サンチョ4世が争い、劣勢のサンチョ4世に助けを求められサンチョ1世はサンチョ2世と戦った(三サンチョの戦い)が、ナバラ・アラゴンは敗れカスティーリャがナバラから領土を一部奪い取った[3]。
1076年、ナバラ王サンチョ4世が弟によって暗殺されるとすかさず攻め入った。サンチョ1世は同じく王位を求めてナバラに侵入したカスティーリャ王アルフォンソ6世(サンチョ2世の弟)を破り、サンチョ5世としてナバラ王に即位したのである[1][4]。一方サンチョ4世の王子ガルシアも亡命先のカスティーリャ=レオン王国でナバラ王即位を宣言したが、領土を奪還することはできなかった。
ナバラ王に即位してからは都市成立にも手を貸し、ハカに司教座を設置、翌1077年にフエロを与え外国人や商人・職人定住を図った。だが宿願である領土拡大は継続、南と西に征服を推し進め、1094年にウエスカを包囲、同年6月4日に包囲中に死去した。王位に即いた長子のペドロ1世がウエスカ包囲を続け、2年後の1096年11月21日に降伏させた[1][5]。
家族
[編集]1065年頃にウルジェイ伯アルメンゴル3世の娘イザベルと結婚し、1男をもうけたが、1071年離婚した。
- ペドロ1世(1068年頃 - 1104年) - アラゴン・ナバラ王
1076年にルシー伯イルドゥアン4世の娘フェリシーと結婚し、2男をもうけた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- レイチェル・バード著、狩野美智子訳『ナバラ王国の歴史 山の民バスク民族の国』彩流社、1995年。
- D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年。
- 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて』書肆心水、2007年。
- 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
- 西川和子『スペイン レコンキスタ時代の王たち 中世800年の国盗り物語』彩流社、2016年。
関連項目
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